「早く」て「ていねい」。

投稿日 : 2019年3月18日

白洲正子さんの言葉の中に「早くても荒くならぬように」「多くても粗雑に流れぬように」ということばがありました。これは大事なことを表しているように思えました。

「slow life」ということばと「ていねいな暮らし」ということばが同義に捉えられることが多いですが、「ゆっくり=ていねい」なの?と不思議に思います。随分前から世の中には「ていねいな暮らし」信仰というのがあるみたいで、なんだか違和感があります。

お稽古でも、お点前がどうしてもゆっくりになってしまう方はたくさんいます。そういうときは「もうちょっと速く…」と声掛けします。ゆっくりやったからといって、上手にできるということではない。速くちゃんとお点前ができれば、それをゆっくりにコントロールするのは可能ですが、その逆は無理…というのは、ちょっと考えればわかることです。放っておいたら、ゆっくりでしかお点前できないようになってしまいます。ある程度のテンポで上手にできるように、身に着けなくてはいけません。

私の尊敬するばあば(主人の母)は、「早く」て「ていねい」な人です。江戸っ子でせっかちなところもあり、「早い」のは、ばあばの美徳の一つ。歩くのは普通の人の早歩きのスピードだし、しゃべるのも早口。家事でもなんでも、いつだってサッサと終わらせて、どんどん次のことに取り掛かってしまいます。

ばあばはよく言います。「私、人の三倍は生きていると思うのよ」。子どもこそ2人しかいませんが、老人介護は4人分体験し、今までお稽古を見てきたお弟子さんは、茶道・華道の2つ合わせたら何十名もいます。しかも、自分も弟子として数々の習い事をしてきましたし、世界旅行や国内旅行など、遊びだって手を抜きません。もう、三倍どころではないかも?

ばあばは、一つひとつに真剣そのものです。時間がないから忙しいからなどと理由をつけて、いい加減とか適当に、ということは嫌い。やるからにはちゃんとやる!が信条です。

まだまだ「のろま」な私です。見習いたいと思いながら、今日もグズグズ。。。

自分に声掛けしつつ…「もうちょっと速く…」。

まずは内面に降りていく。

投稿日 : 2019年3月15日

学生時代、他大学の客員教授が、社会学の一般教養の授業で話していたことが、ふと思い当たりました。

その教授は、ヨーロッパの都市の風景から学ぶことについて語ってくださったのですが、絵画を鑑賞することを風景を眺めることと同じように捉えていらっしゃいました。

絵画の額は「窓そのもの」である。絵画という風景を眺めることによって、自らの外部へ視線を向け、また、外部から自らの内面を覗き込むことができる。絵画の中に、自己の心や精神や、歩む道を見ている。視線は窓から外へ向かっていくけれど、実は内面に降りていっているのである。

ほんの一学期、数ヶ月の授業でしたが、とても印象的でした。

絵画を眺めてそこから感じとるものは、人それぞれ、眺める人によって違ってきます。風景を眺めても同じこと。何に心を奪われるかは、その人によって違うはず。

それは、つまり、同じ風景や同じ絵画を見ていても、違うものを感じ取ることができるということです。同じ体験をしても、そこから何を得るかは、それぞれにかかっている。

美しい風景や絵画に感動できる自分でいたいです、ね。

茶道の型について。

投稿日 : 2019年3月12日

能の「型」に思いを寄せたのには、茶道の「型」について考えていたところだったからかもしれません。

茶道にも「型」があり、一見してなんのために行っているのかわかりにくい所作も、中にはあります。お稽古中には「なぜこのような所作をするのですか」と質問を受けることがよくあります。

大抵の所作には一応の理由があります。「お客様に出す前に、まずは道具を清めている」「茶筅の先が折れていないか確かめている」など、言葉で説明できる場合も少なくありません。

現代の茶道のお稽古場の傾向として、所作一つひとつを説明しながらお稽古をするという傾向があります。ウチでのお稽古もその流れにもれず、なるべく解説しながら行っています。

でも、私自身、説明しながら「実は説明なんていらないのでは」もしくは「説明することで頭で理解しようとしてしまうことは、余計なのではないか」とも思っています。

理屈を先に覚えることによって、所作は一度、頭で理解して咀嚼してから、体の動きに変換されます。本来は、体にそのまま型が入るのが理想のような気がします。

「型」は、数百年の昔に体系だてられた、完成された動作です。洗練され、磨かれた動きであるからこそ、様式美として完成されており、長い歴史の中で守られてきたのだと思います。本来は、その「型」の連なりをただただなぞることこそが、「実」のあるお点前であるはずです。何も考えずに「型」に集中をすることで、自分を溶け込ませることができるのではないでしょうか。

先日、お稽古中に「その所作の中に、利休がいるのです」というコトバを、先生がおっしゃっていました。まさにその通り。わだかまっていたモノが腑に落ちた瞬間でした。

「若い頃に習った先生は、訳も言わずにとにかくこの所作を覚えなさいという教え方で、全然理解できなかった」という方は結構いらっしゃいます。丁寧な説明を伴いながらお稽古をすると、「長年の疑問が解けました!」と喜ばれたりもしますので、今後も解説を加えはしますが…。

頭でっかちにならないように。自分に言い聞かせてバランスをとりながら、今日もお稽古に励みます。

動きは早くても荒くならぬよう。

投稿日 : 2019年3月9日

2019年3月3日の朝日新聞「折々のことば(1392)」に白洲正子さんの言葉が載っていました。

動きは早くても荒くならぬよう、型は多くても粗雑に流れぬよう、そのためにこのような重い装束をつけるのはかえって助けになる。

『お能・老木(おいき)の花』から

白洲正子さんは、著作からも美学からも独自性が感じられて、自伝での語り口からしても、自由に生きた人に思えます。でも、幼い頃から梅若流のを習い、14歳から舞台を踏んでいたという事実を知ると、ガラリと印象が変わります。

能の一連の舞は、一つひとつの細かい「」の連なりによって成り立っています。型にはそれぞれ名前がつけられおり、洗練された動きをなぞることで、磨き上げられた舞の様式美が完成すると言われます。

型はすでに完成されたものであり、それを体格も筋肉の付き方も違う別の人物がまるっきり同じようになぞるのは、並大抵の難しさではありません。その型を身につけるための厳しい練習は、甘えや気の緩みがあっては続けられることではないように思えます。

型に個性はいりません。自分は必要ないどころか、ただ邪魔でしかないのです。茶道の型でもこれは同じこと。

能で鬼を演じる時にも、「つよいばかりであってはこれはあらいのであって真につよいことにはならない」し、また美しくも面白くもない。そう世阿弥は説いたと随筆家はいう。抑えることで力がこもる、形が整うと。衣は外見を演出するものでなく心を容(い)れるもの。人のふるまいを、生きる構えを象(かたど)るためにある。


朝日新聞 2019.3.3 折々のことば:1392 鷲田清一

視界が狭い能面、重くて大きな動きを阻害する能装束は、ともすると流れ出てしまう自分を抑え込むための容れ物といえるのかもしれません。

ただの「自由に生きた人」ではなさそうですよね、白洲正子さん。

初稽古、2019。

投稿日 : 2019年1月9日

1月8日、無事に初稽古をすることができました。
台子に皆具の取り合わせで、どっしりとしたお稽古始めです。

お昼ご飯には、写真のようなお料理を。
今年評判が良かったのは、百合根ご飯でした。
いつもどおり圧力鍋で、百合根の分の水を増やすことなく、普通の水加減で炊きました。
真っ白な見た目もいいし、百合根がホクホクして、食感がちゃんと残っていて美味しかった(*^^*)

今年もお稽古ができるのって、ありがたい。さあて、がんばるぞ。

新年に寄せて、2019。食の記録。

投稿日 : 2019年1月9日

結婚後、年越しそばに関しては紆余曲折ありますw。
なぜなら、それぞれの実家での年越しそばを食べる時間が違っていたから。

主人の実家では、「年越しそばは『年を越す瞬間に食べるもの』でしょ」ということで、深夜12時に食べていたんですって。それを聞いて、私はもうビックリ!「そんな深夜に食べるの?ウチでは普通に大晦日中に食べればいいと思ってた!」

結婚後はそのやり方にならって、深夜に食べていました。11時過ぎたら天ぷらを揚げ始めて、カウントダウンが近づくと食べ始めて。子どもが生まれてからもしばらくは、その時間帯。

でも、子どもがおそばを食べられるようになってからは、子どもにも食べさせてあげたいね、でも子どもは年越しまで起きていないし…仕方ない、夕ごはんに食べるか…という成り行きに。それからずっと、夕ごはんの時間帯に食べています。

今年はばあばも私も天ぷらを揚げたので、盛り沢山。なんと、一皿が一人前w
お蕎麦も、もちろん、おかわりがあります。食べ過ぎでしょ、いい加減。

そして、年が明けて、おせち料理
今年は大晦日の午前中には支度が終わり、大晦日の午後、ホッとする時間が持てました。

田作り・栗きんとん・海老旨煮・酢蓮・酢牛蒡
黒豆・伊達巻・紅白なます
煮しめ・チャーシュー・鶏旨煮・里芋含め煮

ばあばが作った
椎茸含め煮・数の子・赤蕪漬
も一緒にお重に入れました。

この他に、私は角煮を煮たり、ばあばは三浦大根の紅白なます・金時豆・松前漬けも作っていました。

のんびりした1週間を過ごせたと、じいじも主人も言っていたので、よかった(*^^*)