2019年3月3日の朝日新聞「折々のことば(1392)」に白洲正子さんの言葉が載っていました。
動きは早くても荒くならぬよう、型は多くても粗雑に流れぬよう、そのためにこのような重い装束をつけるのはかえって助けになる。
『お能・老木(おいき)の花』から
白洲正子さんは、著作からも美学からも独自性が感じられて、自伝での語り口からしても、自由に生きた人に思えます。でも、幼い頃から梅若流の能を習い、14歳から舞台を踏んでいたという事実を知ると、ガラリと印象が変わります。
能の一連の舞は、一つひとつの細かい「型」の連なりによって成り立っています。型にはそれぞれ名前がつけられおり、洗練された動きをなぞることで、磨き上げられた舞の様式美が完成すると言われます。
型はすでに完成されたものであり、それを体格も筋肉の付き方も違う別の人物がまるっきり同じようになぞるのは、並大抵の難しさではありません。その型を身につけるための厳しい練習は、甘えや気の緩みがあっては続けられることではないように思えます。
型に個性はいりません。自分は必要ないどころか、ただ邪魔でしかないのです。茶道の型でもこれは同じこと。
能で鬼を演じる時にも、「つよいばかりであってはこれはあらいのであって真につよいことにはならない」し、また美しくも面白くもない。そう世阿弥は説いたと随筆家はいう。抑えることで力がこもる、形が整うと。衣は外見を演出するものでなく心を容(い)れるもの。人のふるまいを、生きる構えを象(かたど)るためにある。
朝日新聞 2019.3.3 折々のことば:1392 鷲田清一
視界が狭い能面、重くて大きな動きを阻害する能装束は、ともすると流れ出てしまう自分を抑え込むための容れ物といえるのかもしれません。
ただの「自由に生きた人」ではなさそうですよね、白洲正子さん。