値付けされるということ。

投稿日 : 2018年10月9日

物の価値について。

サザビーズで1億5千万円で落札されたバンクシーの絵画が、落札直後にシュレッダーされたというニュースがありました。

小6の息子もニュース映像を見て大変ショックを受け、「モノの価値観」をひっくり返された様子。
後でばあばに会ったときに、「ねぇねぇ、あのニュース見た!?」と興奮気味に話すくらいに。
バンクシーからしてみれば、遠く日本の一人の子どもの価値観にまで影響を与えるなんて、してやったりでしょうね。

お金というモノサシで値付けされた価値というのは、誰から見ても分かりやすいものです。

高校生がアルバイトしたり、大人になって自分でお金を稼ぐようになったりすれば、私が一ヶ月必死に働いても、アレは買えない…と、そのモノの価値を身近に感じることができる。

子どもだって、値段のついている身近なモノと比べて、例えばこのお菓子一箱を100万本買える値段でもアレは買えない…と比べることができる。

だから、ついついモノの価値をお金というモノサシで考えがちです。

そして、それはなんだか俗っぽくて、例えば素晴らしい茶道具について、「この室町末期の茶碗は2千万円です」なんて表現してしまうと、そんな野暮な言い方をしなくても…と興ざめしてしまったり。

でも今回のバンクシー作品のニュースを見て、お金で表現される価値について、子どもと話すいい機会だなと思いました。

今ある普段の暮らしは、ウチの場合は主人が働いて稼いでくれているお給料があって、衣食住が保たれているということ。

そして、その働いた価値を周囲の人が認めて、それに対して対価を払ってくれているから、お給料がいただけているということ。

認めてもらえるだけの仕事を、主人がしてくれているということ。

例えば、素晴らしい能力があって、その能力の全てを発揮して何か大きな働きをしたとしても、それが誰のところにも届かず、誰もその価値を認めてくれないとすれば、お金で表現される価値は全くないことになってしまう訳で…。

いつもの暮らしがあるということのありがたみが、胸に沁みてきます。

これから大きくなって、自分でお金を稼ぐようになったときには、子どもたちも実感としてそのありがたみに気づくことができるのかもしれません。

でも、少しだけでも、日々の暮らしってありがたいなと思いながら暮らしてもらうことができれば、毎日がもっと大切にできるような気がして。

せっかくだから、今晩夕食後には、この話をしてみようかなと思います。
どう受け止めてくれるかしら。。。