ものを大事にするこころ。

投稿日 : 2014年3月19日

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折りたたみ傘をしまうと思い出すんです。

学生時代、友人と電車に乗りこんだ時、折りたたみ傘をおもむろに畳もうとした私に、その友人が「こうやって畳むと上手に畳めるんだよ」と教えてくれました。確かに、教えてもらった通りに畳むと、買った時のようにキレイに畳めました。

その友人は、ものを慈しんでとても大事に扱う人。そういうところ、すごく尊敬していました。とても印象に残っていて、折り畳み傘を畳む時になると、その友人に思いを馳せます。

私は粗忽物です。おっちょこちょいで、ものを壊したりすることもあります。そんな自分に嫌気がさします。

2013年7月2日の朝日新聞、天声人語に以下の文章が載りました。半年以上前なのですが、心に残り、メモしておきました。

「みずばち」という言葉を幸田文(あや)の随筆で知った。明治生まれのこの人が若いころ、水を雑に使うと「いまに水罰があたって、水で不自由する」と叱られたそうだ。おまえに水がこしらえられるか――。叱る大人には、水は天地自然のおかげさまという思いがあった。

この幸田文の随筆は、私が生まれた年に書かれた短いエッセーだったようです。厳しい人というイメージ通り、幸田露伴が娘を叱りつけていた様子が見えてきます。続きにこうあるそうです。

洗濯のすすぎ水も二度目からは井戸端を洗い、雑巾をすすぐ。そのあと道路の埃どめにまく。めんど臭いから、ちょろりと流せば、見つかって、いわれることがきまっていた。

「こしらえられないもの」か。「めんど臭い」か。
読んだ時、そうそう、それなんだよねと思いました。

問題は、水だけではないように思います。

昨今、「めんど臭い」から、何かを粗末にすることが多いように思います。でも、それでいいのかな。
その何かは、巡り巡って、自分のところまで届けられたはずです。そう考えたら、粗末になんてできないはずなんです。

昔の日本人は、「もの」にも「たましい」が宿ると考えていたといいます。宗教学だとアニミズムとか括られてしまう、あれです。
私は小さい頃から、なんとなく「もの」に「たましい」を感じます。小さい頃は、本当に精霊や妖精のようなものが宿っているように感じていました。だから、粗末にしていい気なんてしないんです。

とはいえ、粗忽者の私。うっかり壊してしまったり、傷つけてしまったりすることがあります。そうすると、大事な「たましい」を自分が無駄にした気がして、落ち込みます。
祖末にしている人を見ても、何だか落ち込みます。それが身近な人だったら、「ダメ!」と思わず口走ったり。

偉そうなことなんて、一つも言えません。でもあの友人みたいに、ものを慈しんで大事にしたい。そう思い続ければ、そういう人になれるんじゃないかと、、、願っています。