期待に応えるということ。

投稿日 : 2015年11月19日

応えられなくても、いいんじゃないかな。

—昨日、娘が床の間に活けたお花は、菊桐。花芽のたくさんついた桐と、菊二種の投げ入れでした—

今朝、コヨミ会とは別の教室、A先生の元で茶道のお稽古をしている方から、「相談したいことが」と電話がありました。

「自分の勉強が足りないからA先生の期待に応えられなくて、お稽古に通うことが苦しいんです。A先生の教室を一旦お休みして、他の教室で勉強をして成長してからA先生の教室に戻ることにしようかと思うんです。」

既に心は決まっているご様子でした。その方は、私よりも茶道のお稽古歴が長く、先輩とも言える方です。私は、思いの丈をお話なさるのに相づちを打つのみで、「まずはA先生にご自分のお気持ちをそのままにお話なさったらいかがですか」としか言えませんでした。

期待に応えることを求めている先生なんていないのではないかなと私には思えます。応えようなんて考えること、ないんじゃないかな。

期待に応えられないように思えてしまうときは、先生のおっしゃることが身に沁みて受け止められない時であって、その方の心が頑なになっている時なのではないでしょうか。

誰にでもそういう時はあります。日常の様々な出来事によって自分が縮こまってしまうときは、コントロールを失ってしまっているとき。そして、自分ではなかなか気付けなかったり、気付いてもどうにもできないということもあります。

私もそういう時があり、先生に「何だかうまくいかない」と相談したら、「そういう時もあるわ、だけど、やめない事よ」と、優しく待ってくださる言葉をかけてくださいました。受け止められるようになるまで、辛抱強く繰り返し教えてくださいました。

暮らしの中においても、そういう時はあります。周りの方からの親切やアドバイスも受け止められず、放っておいて欲しくなってしまう時、ただただぼんやりと過ごして時間が解決してくれるのを待ちたいと思える時…

子どもと親の間でも、そういう時あったなと、自分の子ども時代を振り返ります。親の期待に応えたくて、応えないと悪い子のような気がして、自分を責めてしまったり、もう嫌だ!と投げ出したくなったり。だけど、母も、父も、いつだって見守っていてくれて、気長に待っていてくれました。私が勝手に期待に応えようと気負っていただけだったんだ!って気付かされたり。

これから、ウチの子たちもそういう時があるかもしれない。

大事な人がそういう気持ちになっている時に、一緒に待ち、言葉を交わせる自分でありたいな。

人を教える身として、大事な人との時間をこれからも紡いでいきたいと思う身として、改めて振り返り、考えさせられた朝となりました。