茶室へのいざない。
中学生の頃、色んなことを問答し合う友達がいました。禅問答のような、哲学問答のような。今思い返すと「厨二病」かなとも思うけれど、話した内容は今でも心に残っていることばかり。そんな時期を過ごすことは、反抗期と同じく、大人になる前の大事なイニシエーションかもしれない。
その中の一つに、「所有すること」についての話がありました。
何かを所有すると、同時にその何かを「失う恐怖」も得てしまう。
だとしたら、最も恐怖感のない生き方は、「何も所有しない」ことにあるのじゃないか、なんてね。
断捨離ブームが来た時、この時の会話を思い返しました。モノがなくてスッキリして、心も暮らしも清々しい…!そりゃそうだわ。
最近は捨てるばかりじゃない収納術も多少人気が出てきているようですけれど、モノが少ない生活の方がスッキリシンプルなのは当然のこと。
茶室では無駄なものをどんどんそぎ落としていきます。断捨離のようにただ捨てていくということではなくて、その根底には、大切なものは物質には宿っていないという考えがある。心の中にこそ、ある。
床の間はいたずらに飾り立てず、心に響く最低限のものだけを、まるでそこにあるのが当たり前のように、置く。
利休と秀吉の間の一輪の朝顔のエピソードがとても象徴的です。ここでは語り尽くせません。
自分で清めた部屋で過ごすうち、清められるのは実は、私自身だったりします。。。これも、当然のこと、なのかな。
どなたさまも、
気が向いた時は、いつでもどうぞ。
お越しをお待ちしております。