受け取るココロさえあれば。
お茶の席の床の間に掛ける軸には、禅語や和歌などが書かれていることが多いのですが、その中でよく見かけるのが「声」「聲」(こえ)というコトバです。
「音」(おと)よりも「声」。なぜなのかなと考えさせられたのは、三宮麻由子さんの「鳥が教えてくれた空」を読んだことがキッカケです。
辞書(広辞苑)には
音:物の響きや人・鳥獣の声。物体の振動が空気の振動として伝わって起こす聴覚の内容。
声:人や動物が発声器官から出す音。音声。音声学上、声帯の振動を伴う呼気。有声音。
とあります。この説明だと、「音」は物体の振動が起こす音波全般を指して、生物、無生物は関係なし。英語だとsoundにあたるのかな。「声」は生物の音声ということで、voiceにあたりますよね。
でも、禅語ではちょっと違います。
元々、中国語の「声」という単語には、無生物の引き起こす「音」も含まれるようで、禅語での声もそこからきているようです。
例えば
雨滴聲(うてきせい)…雨だれの音
松風颯々声(しょうふうさつさつのこえ)…松に吹く風の音
谿声山色(けいせいさんしき)…谷川の水の音
自然の中にある「音」を「声」と表現するとき、そこにはその「音」を感じとる側の「耳」の存在を強く感じます(私の勝手な解釈かもしれませんけれど)。
「音」は物が立てる「音」そのものであるのに対し、その「音」を意識して「耳」で聞き取ろうとしたとき、その「音」を立てている元の存在(風や雨など)を意識して「声」として「耳」に届く。
つまり、それを感じる側次第で、どんな風にも聴こえ得るということ。
静かな雨だれの音、木々の間を抜ける風の音…自然の中の声というのは、自ら主張することはありません。受け取る側に余裕がなければ、いつの間にか通り過ぎてしまいます。その声を、そのままに聞き取ることのできる閑か(しずか)な心をいつでも持っていたいものです。